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2003年12月2日 礼拝説教 【救いをもたらす神の恵み】南 吉衛
テトスヘの手紙  2章11-14節
 

 クリスマス、イエス・キリストの誕生を祝うとき、その喜びをルカによる福音書二章は こう伝えている。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。(中 略)あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。  最初に、このように物語風に語られたキリストの誕生の喜びは、それから百年ほどたっ て、パウロから愛弟子テトスヘの手紙では、今日の聖書個所の冒頭のように教義学的に書 かれている。
  「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」。ここには、飼い葉桶も羊 飼いも、乳飲み子さえも出てこない。しかし、語られていることは同じである。それは、イ エス・キリストの誕生がどうして、わたしたちの喜びになるのか、そして、それを知ることによってわたしたちはどうなるのかである。 11節は、クリスマスとは「神の恵み」がわたしたちに現れたこと、そして、その神の恵みには次の三つの特色があることを語ってい る。1.現れた(エピファニー)、2.救いをもたらす、3.すべての人々に。今日は、これらの神の恵みの特色について考えたい。イエス・ キリストの誕生がわたしたちにとって神の恵みであるのは、この三つを含んでいるからである。

 第一の特色「現れた」とは、もはやそれは隠されていないこと、時が来て、神はそのことを世界中のすべでの人々に知らせて下さっ たことである。神がイスラエルに約束なさつた、救い主(メシア)が必ず送られること。それが具体的にイエス・キリストがこの世に 生まれる、神のひとり子としてこの世に派遣されるという形を取った。  問題はそのイエスがどういう人であったかである。初めが馬小屋で終わりが十字架、そういう人としてイエスは、この世に誕生した。 神がご自分をそのように低くされた。しかもそのことはわたしたちの為であった。これは誰もが予期しなかった、言葉では言い表すこ とができない神の大きな恵みである。
 そして今日の聖書個所で見逃してはならないことは、この「現れました」(2節、完了形)という言葉が、22節にもう一度出てく ることである。そこには、「イエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています」と書かれている。つまりこの「現れる」とは、 今既に、イエスがこの世に生まれるという形…で現れたことと、将来もう一度イエスが再臨する時のことである。そしてその第二の現れ をわたしたちが待ち望むように、この神の恵み自身がわたしたちに教えているのだと聖書は語っている。
 わたしたちは、聖書がこのことで何を言おうとしているかを知っている。つまり、わたしたちは「中間時」に生きているということ だ。「すでに」神の恵みは現れたが「末だ」完全な形では現れていない。その意味で、今はそれらの中間の時である。つまり、今日の聖 書個所は、イエスの誕生と同時に、イエスの再臨についても語っているのだ。違った言い方をすれば、イエスの誕生、飼い葉桶に代表 される貧しさ、更にその後のイエスの人生、苦しみと悩みと死、そういう人としてこの世に派遣され、わたしたちと同じ人間として歩 まれたイエスが、もう一度、今度は栄光に満ちて現れるのである。
 そしてわたしたちが、この中間の時を、信仰を持って生きるようにと、神の恵みがわたしたちに教えている。世界の歴史は、この初 めの現れと、終わりの現れによって決まってくるということである。初めの現れがわたしたちの生の根拠、つまりそこに喜びがあり、 終わりの現れがわたしたちの生の目標、つまり希望である。
 更に最初の現れについて二一節では「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信 心深く生活するように教え」ていると言う。つまり、神に背を向けているこの世にあって、神の恵みを知った者は、あらゆるこの世的な 欲望に対して否を言わねばならない、この世で自覚的に生きなければならない。
 ここで「信心深い」とは、第一に神と人間との調和的な関係のことである。それが正しく行われている場合、それが外面 的な結果と して表れることである。単に「信心深い、敬慶な生活」を勧めているのではない。それは、子供を愛している親であれば、子を「訓練す る」ことに似ている。わたしたちは、イエス・キリストを通して神の子とされた。その子を、神が訓練される。イエス・キリストの 恵みは、わたしたちを新しい人間に造り替えようとされるのである。野蛮な人間、野放図な人間を訓練を通 して、神の子、恵みの子、 光の子にしようとされる。

 わたしたちは、心の底から変えられる、そのことがわたしたちにとって本当に必要なのだ。わたしたちは神が望んでおられるような 人間ではない。それだからこそ、神の恵みによって、少しでもそれに近い人間に変えられねばならない。同時にこのことは14節で言 われていることとも関連する。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から蹟い出し、良 い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」。  キリストの誕生から再臨までの、中間の時を生きるわたしたちに求められていることは、テトスが、因難な緊張に満ちた時代を背景に していたことを知るとき、良く理解できる。神の恵みは、キリスト者の訓練と切り離せなかったのである。そのことは一四節の、神を 信じる者が「良い行いに熱心な民」となること、つまリキリスト者が、神が喜んで下さることを熱心に行うこととも関係している。こ のことがイエスの誕生を契機にわたしたちの間で行われねばならない。

 次に神の恵みの第二の特色、「救いをもたらす」ことに目を向けたい。テトスが何故救いをもたらすことを強調したのか。当時のキリ スト者が戦っていたのは、いわゆる皇帝礼拝(ローマ皇帝を神として崇拝)に対してであった。それは、キリスト者にとっては言うまで もなく、一般の市民・奴隷にとっても、救いをもたらすとは言えなかった。むしろ苦痛であり、強制であった。  それに対して聖書は、イエス・キリストを信じることは、喜びであり救いであると言う。それはイエスの誕生が貧しい姿を取ったこと と関係している。14節「キリストがわたしたちのために御自身を献げられた」ことと関連している。彼の最後は十字架で終わった。 十字架、それは人間の悩み苦しみの最後の姿、死そのものである。イエスの十字架によってもたらされた救いは、完全な救いであった。 わたしたちが何かを追加する必要はまったくない。イエスが救い主としてこの世に派遣されたことは、十字架においてその頂点に達し たのである。

 そのようにイエスの十字架を理解した当時のキリスト者は、続いて13節のような告白をするのである。つまりキリスト者としてわ たしはこのようにしたい、このように生きて行きたい。神がイエスにあって、わたしに成して下さったことへのわたしの側からの応答 である。神の恵みの特色は、救いをもたらすことであるから、その結果として当然、救いをもたらさないものとわたしがきっぱりと決 別することである、と言える。
  14節は、この救いが何によって可能なのかを語っている。救いの目的は、聖書全体からも言えるが、わたしたちを新しい人間にす ること。それが可能なのは、ただイエス・キリストがわたしたちのためにご自身の命を献げて下さったからである。それ故わたしたち は、自分の力でこの世的な業績を積んで救いを達成する必要はまったくない。

 神の恵みの三つ目の特色は、それが「すべての人々」を対象としていることである。わたしたち一人一人が含まれている。例外はな い。裏を返して言えば、すべての人が救いを必要としていることである。すべての人が何らかの意味で、神に背を向けているす べての人が罪の支配の下にある。パウロの言葉を使えば「正しい人は一人もいない」のである。すべての人が死に至る病で悩んでいる。 つまリクリスマスの光は、明るい所にいる人には意味が薄い。しかし暗闇の中にいる人々には、その光は大きく輝くのである。その意 味で、クリスマスの光はこの世を照らす真の光である。
 世界に多くの宗教があるのに、すべての人に救いをもたらすのは唯一つ、イエス・キリストの恵みだけであると言うと、首をかしげ る人があるかもしれない。世界の偉大な宗教、イスラム教や仏教はそうではないのかと。また「救いには幾つもの道がある、その中で選 べば良いのだ」と聞くこともある。しかしこれらは真実ではない。つまり、本当の恵み、無条件の赦し、わたしたちに何も前もって求 めることなしに達成された救いは、イエス・キリストをおいて他にないのである。

 わたしたちは、今年、この目白の神学校礼拝堂で、多くの人々と「神の恵み」について聞いたのである。来年は、もし神がそれを許 してくだされば、新しい礼拝堂で、イエス・キリストにおいて人間となられた神の恵みの言葉を聞くだろう。それまで、目標を見失う ことなく、常に神の恵みに生かされつつ信仰生活を続けたい。

 それは謙遜な行為であり、同時に感謝すべきことである。謙遜であるのは、その恵みを受けるために、わたしたちからは何も差し出 すものはない。何故なら、良い行いに熱心な民になることは神の働きだからである。同時にそれは感謝すべきことである。何故なら、 信仰の道は決して孤独な道ではなく、主が何時も共にいて下さり、神の国に至るまで、わたしたちを導き、支え、担って下さるからである。 このことがわたしたちにとって大きな慰めであり、希望である。そして現代の世界は、このような希望に生きる人、つまり新しい人 を必要としている。この世的なあらゆる欲望ではなく、神の恵みによって生きる人を必要としている。その恵みは今や、イエス・キリ ストを通して実現したのである。
(2003年12月2日降誕節礼拝説教)

 
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